「いま」のテーブルに何を乗せる?
1番古い記憶は?
よちよち歩いていたころ?
幼稚園で遊んでいるもの?
思い返せばいくつかの記憶が蘇ってくると思います
その中で
人に話したことがある記憶はいくつありますか?
生い立ちや過去のできごとを
何かの流れで人に話すとき
初めて口にする記憶は
前後の記憶の曖昧だったり
色や感情がはっきりしなかったり
どこか「新鮮」
一方で
人生において大きなできごとだった、と
認識していること
それは
これまでにすでに
何度か誰かに
話したことがあるはず
それはすでに『ストーリー』になっていませんか?
最初に話している途中に思い出した前後
相手に質問されてさらに思い出した細部
今の自分とのつながり
それらが整理されて
”語りやすい形”へと調理される
新鮮さよりも、
完成度の高いストーリーとして
わたしはそうでした
ずっと
誰かと知り合い
少しずつお互いを知っていく
過去のことをシェアする機会がやってくる
『ストーリー』を語る
そこにはネガティブな側面が含まれていても
「わたし、かわいそうでしょ」ではなく
「それでも生き抜いたんだ〜」と
明るく笑い飛ばして話していました
いつもはそれでおわり
あるとき
ある人の
ある言葉に息を飲みました
悲しい過去があったのはわかった
辛い思いをしたのもわかった
でも
もうそれを持ち続けなくても
いいんじゃない?
過去を
今のテーブルに載せているのは
自分だよ
ちょっと突き放されているようにも聞こえるこの言葉
でも
愛あるからこその言葉
数日間
ぐるぐるこのことについて考えました
どうして
わたしは
過去を今のテーブルに載せてしまうんだろう?
載せたいのか?な?
「こんなにがんばった人」と思われたい?
「こんな苦難を乗り越えたんだ」って証明したい?
「そんなに大変だったね、大丈夫?」寄り添って欲しいの?
ふむ
理由はひとつじゃない
そこに何かが隠れているのは確かだなと
そもそも
そもそも
若い頃
「事実は1個しかない」と思っていました
ところが
同じ出来事でも
どう捉えるかは人の前提によって変わる
主観的であれ客観的であれ、人の数だけ
行為そのもの
その背景
解釈の仕方
それぞれの人の
「前提」がちがうために
全部ちがう
(ここもう少し書きたいけれど、今は元の言いたいことに戻って)
自分が語っている『ストーリー』の中の事実すら
そこに登場する他の人物にとっては
ちがう事実だと知った
そこに付随する感情や
表に出さなかった思考はなおのこと
それは、それぞれ人の内側にしかない
それらを
自分都合に味付けしたのが『myストーリー』
どんなに苦しいものだったとしても
どんなに辛かったという記憶であっても
それすら自分に都合よく調理したもの
都合がいい?
そんなわけないと思っていました
意味のあるもの?
そんなわけないと
ここで
myストーリーを1つシェア
私ね、小学生のころからず〜っと「頭痛もち」だったの
痛みがない生活なんてが考えられないくらいの
ランドセルにね、「頭痛薬を箱で」入れてたんだ〜
大丈夫?とか寄り添ってくれる母親じゃなくてさ
そんなわけないじゃんの目で見られたなぁ
20代の頃はね
薬をラムネみたいにポリポリしたこともあるよ
頭が痛すぎて起き上がれずに寝込んだことも何回もあるし
痛すぎると吐いちゃうこともあったし
それでもね薬を飲めば生活ができる
そう思い込んでたんだ〜
薬の強さはどんどん増していってさ
◯◯じゃないと効かなくなっちゃって
もうね、麻酔のレベルだよね
あははは
この『ストーリー』を今のテーブルにのせるとき
体が弱いから優しくしてね
わたしはがんばりやさんなんだ
わたしは、わたしは、
たくさんのわたしを
都合よく伝えようとしていたのかもしれません
でも
頭が痛くなる必要があったとしたら?
頭が痛くなる方が都合がよかったとしたら?
そしてそれを語ることさえ都合よかったら?
いやいやいやいやいやいやいやいやいや
自分から頭が痛くなるようにするわけないじゃん
はい、私もそう思っていました
でも
もしそうだったら?
涙がとまりませんでした
いろんな角度から自分を見ました
突き放してみたり
あきれてみたり
でも最後はぎゅーっと
自分がかわいくなりました
頭が痛くなって
熱がでて
動けなくなる必要があったんだ
ベッドにもぐって
1人になって
大人の顔をうかがわず
わがままに寝る
その時間が欲しかったんだ
(当時はそうとは認識していません)
ああ、そうか
(実際はもっと色々でてきました)
ああ、そうか
うん、そうね
大丈夫だよ
こうやって自分に寄り添えたとき
『ストーリー』自体も変わるし
母親に対する気持ちも全部変わりました
母親の内側はのぞけません
本当のところはわかりません
わたしからみえる母親
それが変われば十分
今、頭痛薬はほとんどのんでいません
今年は1錠ものんでいません
頭痛が全くないとまではいいません
年に数回、ちょっと痛む程度
何か特別な治療をしたわけではありません
頭が痛いな
そう気づいたときに
あ、からだちゃん、お知らせありがとう
そうしっかり対話するだけ
わたしの身長は150cmくらいです
小さい順に並んだらいつも1番前でした
そもそもちいさい
体力だってそうかもしれない
でも体力は数字に置き換えられていないから
自分の体力を測ったことがないから
体力はみんなと一緒だと思い込んでいた
この「思い込み」
思い込みについてもまた書きたいけど
今は話を戻して(すぐ脱線する笑)
体力もちいさいわたしが
体力がおおきい人と同じくらい
がんばったら熱がでる
頭がいたくなる
当たり前かも?
小さいという形容詞
比較対象がないとでてこない概念
そうこの比較ということもまた書きたい
でも今は戻って〜〜(すぐ脱線するagain)
いまは、余裕をもって
スケジュールをいれるようにしています
それでも
やりたいことがあって
会いたい人がいて
ちょっと予定をつめこむと・・・ねぇ
それだけのこと
わかりやすいんですよね
自分を知る
深い
内省して内省して深いところをのぞいて
自分を知る
そもそも
「自分ってなに?」
うん、書きたいことはいっぱい。
でも、まず
からだちゃんという
目に見える「自分」
ここをしっかり感じて大事にする
そしてまたまた話はもど〜〜って(実は脱線の途中だった笑)
過去の『ストーリー』について
自分の都合について
掘り下げると見えてくることがあります
メンタリングではそういうこともやったりします
今のテーブルに何をのせますか?
自分を知る
自分を好きになる1歩目
あなたの体調不良が全部治るとか
科学が悪だとか
わたしが万能だと言いたいのではなく
あくまでもこういうことがあった
そういうことだろうと
私は思っているという話として読んでください〜〜
u and i

